最高裁判所第二小法廷 昭和35年(オ)134号 判決 1963年1月25日
判 決
上告人
八木米作
右訴訟代理人弁護士
岡田実五郎
佐々木凞
被上告人
大木合資会社
右代表者無限責任社員
大木和平
被上告人
飯野一男
右両名訴訟代理人弁護士
牧野寿太郎
右当事者間の占有回収請求事件について、東京高等裁判所が昭和三四年一一月九日言い渡した判決に対し、上告人から一部破棄を求める旨の上告申立があつた。よつて、当裁判所は次のとおり判決する。
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
上告代理人岡田実五郎、佐々木凞の上告理由第一点(同第三点中これと重複する部分を含む)について。
占有回収の訴は、物の占有者が私力によつて占有を奪われた場合に、その奪つた者からその物の返還を請求することを認めた制度であるから、権限のある国家の執行機関によりその執行行為として物の占有を強制的に解かれたような場合には、右執行行為が著しく違法性を帯びてもはや社会的に公認された執行と認めるに堪えない場合、換言すれば、外観上も前記私人の私力の行使と同視しうるような場合を除いては、執行法上の救済を求めまたは実体上の権利に基づく請求をなしうることは格別、占有回収の訴によつてその物の返還を請求することは許されないものと解するを相当とする。
原判決が確定した事実によれば、被上告会社は、本件室に対する上告人との間の賃貸借契約が、本件和解条項に定める三箇月分の賃料不払を理由として有効に解除されたものとして、本件和解調書に執行文の付与を受け、さらに執行吏に委任して上告人に対する本件室明渡の強制執行をなしてこれを明け渡させたものであるが、事実は前記上告人の賃料不払の事実はなかつたというのであるから、本件室の明渡の強制執行が前記例外的に占有回収の訴を許しうべき場合に該当しないこと明らかであり、上告人の本訴占有回収の請求を排斥した原審の判断は正当である。論旨は、これと異る独自の見解に立脚するものであり、したがつて、違憲の主張もその実質は占有回収の訴の適否に関する原審の判断の単なる法令違反を主張するに帰するものというべきである。論旨は、採用するを得ない。
同第二点について、
被上告人飯野一男に対する上告人の賃借権に基づく本件室の明渡請求を排斥した所論原審の判断説示は、正当として是認すべきである。論旨は、いずれも、独自の法律的見解に立脚するものであつて、採用するを得ない。
同第三点(同第一点と重複する部分を除く)について。
原判決は、被上告人飯野一男においては被上告会社が上告人に対する強制執行によつて本件室の占有を取得した後被上告会社からこれを賃借してその引渡を受けたものであることが明かであるから、被上告人飯野をもつて上告人に対する直接の占有侵奪者ということはできないし、また被上告会社の占有の取得が強制執行の方法によるものであるから、上告人は被上告会社に対し占有回収の方法によつて本件室の明渡を求めえない以上、右被上告会社からさらに本件室の占有の移転を受けた被上告人飯野に対し、占有回収の方法によつてその明渡を求めえないことはもとよりいうをまたない旨説示しているのであつて(この判断は首肯しうる。)、所論のように、被上告人飯野が占有侵奪者の特定承継人であるの故をもつて上告人よりの占有回収の請求ができない旨説示しているのではないことは、原判文に徴し明らかである。論旨は、原判決を正解せず、独自の解釈を前提としてこれを論難するにすぎず、採用するを得ない。
同第四点について。
所論の点についての原審の判断は、原判決挙示の証拠関係ならびに一件記録に徴し肯認できる。論旨は、原判示にそわない事実を主張して原判決を非難するものであつて、採用しえない。
よつて、民訴四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。
最高裁判所第二小法廷
裁判所裁判官 池 田 克
裁判官 河 村 大 助
裁判官 奥 野 健 一
裁判官 山 田 作之助
裁判官 草 鹿 浅之介
上告代理人岡田実五郎、同佐々木凞の上告理由
第一点原判決は法令の解釈を誤つた違法がある。
原判決は、「強制執行が違法があつてもその強制執行によつて奪はれた本件建物の占有は占有回収の訴を以てもその占有を回復できない」との理由で上告人の被上告会社に対する家屋明渡に関する第一次の請求を排斥した。
しかしそこで問題なのは違法な強制執行でもその執行によつて奪はれた占有は占有回収の訴の対象にならぬのかが疑問点である。右の疑問点について検討を加えて見ることにする。
民法第二〇〇条によると「占有者カ其占有ヲ奪ハレタルトキハ占有回収ノ訴ニ依リ其物ノ返還ヲ……請求スルコトヲ得」と規定している。
その規定は占有の侵奪が占有者の意思に基かないで奪はれた一切の場合を指称すると解することは学者の定説である。そうして法文には侵奪者を区別する明文を設けていないから侵奪者は私人であると公人であるとは問うところでないのである。
試みに一、二の判決を調べて見ることにする。
(1) 東地昭和二五年(ヨ)第一六四七号事件の判例によると、「執行手続に瑕疵がある限り仮令執行債権者の執行済による占有であつても不法占有であり占有侵奪者である。(下裁集一巻八号一一九九頁)」
従つて占有の被侵奪者は侵奪者に対し占有回収の訴ができる旨説示している。
(2) 又少し古いが東地昭和一〇年(レ)第七九三号事件に於いても同旨の判決が存するのである。(評論二五巻民法五五六頁)
ところが原判示は之と異なり占有の侵奪者が国家機関である執行吏の場合はも早や被侵奪者に於いて占有回収の訴を提起し得ないというに在ること冒頭掲記の判示の通りである。
がしかし何が故に執行債権者が国家機関たる執行吏に委任して占有を侵奪したときは占有回収の訴が許されないのであろうか、原審の援用する第一審の判決理由によると「占有訴権という制度は占有という外形的事実をそれ自体保護するに値する社会秩序の一つとして之に対する私人の強暴な侵害を彼がその占有を自分に回収し得る権利を有すると否とを論ぜずかかる侵害に対する救済を占有者に与へたものと解せられる。
従つて占有者に対しその占有物の引渡を求め得る権利を有する者も相手方の同意なく自力でその占有を自己に移すことはできないので強制執行の方法によらなければならないこととなる。
そして強制執行の引渡の場合も占有者の意思に反してその占有を奪うという点では私人が占有者を奪う場合と同じであるけれどもこの場合の強暴は社会に公認された強暴なのであるから、これに対して占有回収の占有訴権を行使し得ないものとされる……」とされている。
則ち執行吏の強制執行に因る占有の侵奪は社会的に公認された強暴だからであるというのである。
原審の援用する第一審判決の右の如き見解は果たして妥当といえるであろうか。
元来物の引渡等執行吏が占有者から占有を奪うのは執行吏それ自体の側より見れば或いは原判決の援用する第一審判決の説示の如く解せられないことはないであろう。
しかし右のような場合に於ける占有訴権は相手方を執行吏とするものではなく執行債権者を相手方とするものであるから執行債権者の側から事物を観察しなければならない。
この観点に立つて考えると単的に云えば執行吏は執行債権者の道具に用いられたと見るべきである。
ここに刑法理論を導入して考えて見ると執行債権者の行為は間接正犯者である。即ち占有侵奪という構成要件理論からすれば執行債権者は正犯者であつて執行吏はその故意のない実行者即ち道具として用いられたものと云うことができる。
或る人が責任能力のない未成年者をして他人の物を奪はせたとその軌を一つにするものであつてたまたま右の場合前者は執行吏であり後者は責任能力のない未成年者であるとの単なる差異に過ぎない。
かように考えて見ると原審の援用する第一審の判決理由は要するに執行吏が国家機関であるため特に右の場合の後者と区別して社会的に公認された強暴だといい占有訴権を否定するのであろうか明治憲法の治下にあつては国家は正義の表徴であつて悪をなし得ないと倫理観があり従つて国家の行為に対しては殆んど損害賠償請求権すら認められなかつたのである。
しかし現行憲法に於いては公権力の行使についてはその間に非違ありよつて生じた損害のあるときは国家又は公共団体はその賠償の責を有する旨規定されるに至つたのである。
従つて原審の云う「社会的に公認された強暴」と云う観念を容れる余地がなくなつたものといわねばならない。
又一歩進んで考えて見るのに或る人の占有を奪うのに執行吏を用いたことと、一私人を使いたことに区別を設け執行吏の場合は執行債権者に対する占有訴権がないと解することは公人と私人を差別待遇するとの非難を受け得るであろう。
憲法第十三条の法意から云つても個人は個人として最大の尊重を受けるのみならず立法その他国政上も差別してはならぬ旨を宣言しているのである。
して見ると執行吏が占有を奪うことを以て社会的に公認された強暴であるとして執行手続に仮令瑕疵があつてもその私権の救済ができぬと見ることは前記に掲げた国家の行為を神聖化しようとする理念に根ざすものであつて民主々義を基調とする現行憲法の精神と相容れないものといわねばならない。
憲法の条章は国民に対する国家の強暴のマグナカルタではあるがそれに止まらず私法の解釈運用にも右憲法の法意の支配を受けねばならないのである。
原判決の如き見解を実際の法の運用面に取入れて考えて見ると果たして実生活に妥当するか否かを見てみよう。
国家機関たる執行吏をして強制執行をすればも早や占有訴権の行使ができないというのなら占有者の委任状を偽造又は乱用して所謂即決和解を為しその和解調書に基いて強制執行を為し家屋明渡を断行した場合、占有権という私権それ自身の回復乃至救済はも早や求められぬことになる。
して見ると奸譎の徒は好んでその手段を択ぶこととなり法の秩序が容易に攪乱されるに至る。
かかる場合は稀有の問題でなく巷間屡々行はれる事例である。
実に憂々しい問題と云はねばならない。
論者或いはかかる場合の救済は損害の賠償の請求をすればよいではないかというかも知れない。
しかし損害賠償は原状回復の不可能な場合の第二次的な救済手段であつて本筋の救済手段ではない。
私権(本件では占有権)それ自体の回復のできない法の解釈運用の如きはほめたものではない。
法解釈も立法の精神がどうであろうと実社会に妥当するように解釈運営されねばならぬのである。
以上のように考へて見ると原判決の法解釈は実際生活にも則しない法条の文理にも反するのである。
仍つて原判決の破毀さるべきものである。
第二点原判決は法令の解釈に誤がある。
原判決によると「上告人は第二次的に(被上告人飯野一男に対し)賃借権に基いて本件建物の明渡を請求するものであるが、しかし本件は被上告会社が上告人と被上告人飯野とに同一の室を二重に賃貸借した場合であつて、上告人は前の賃借人被上告人飯野は後の賃借人ではあるが被上告人飯野は被上告会社が上告人から本件室の占有を取得した後に被上告会社から之を賃借してその引渡を受けたものであるから……後の賃借人たるの故を以て前の賃借人から明渡を求めらるべき限りでない」として上告人の被上告人飯野に対する本訴請求を排斥した。
そこで問題点が二つある。
その一つは建物の賃借権の対抗力について借家法第一条の「引渡を受ける」との趣旨は建物を占有することが賃借権の対抗力に関する成立要件なのかそれとも存続要件でもあるかとの点であり。
その二は「爾後建物ニ付物権ヲ取得シタ者」の中に賃借権をも包含するかとの点である。
これ等の問題点を解明して原判決が法律の誤解をしているものであることを明かにしたい。
一、借家法に云う「建物ノ引渡シ」が建物の賃借権(以下借家権という)の対抗力に関する単なる成立要件だと解するときは借家権の建物に対する爾後の物権取得者(賃借権者も含む後に論述する)に対抗できることになるのであるから本件建物の後の借家権者たる被上告人飯野にも対抗できるので同人に対し上告人は借家権に基いてその明渡しを求め得るものといはねばならない。
しかし対抗力の問題は取引の安全性とにらみ合せて考えれば表顕性を必要とすべきであるから建物の占有は対抗要件の存続要件でもあると解せねばなるまい。
しかしその占有は占有者の意思に基かずして奪はれた場合にも、も早や借家権の対抗力を喪失するのかが問題のようではある。
しかし占有者の意思に基かずして占有を奪はれた場合につき先ず民法第六〇五条の規定との関係について考えて見よう、同法によると「不動産ノ賃貸借ハ之ヲ登記シタルトキハ爾後其不動産ニ付キ物件ヲ取得シタル者ニ対シテモ其効力ヲ生ス」とあつて借家法第一条が右登記以外にその登記に代えるに「引渡による占有」を以ても法律上同一の対抗力を持たしむるに至つているのであるが賃借権の登記はもし登記権利者の意思に基かないで何等かの事由で抹消された場合に於いては登記権利者はその抹消された登記の回復登記請求ができるのである。(登記法第六五条)
そうしてその回復登記請求がなされた以上その登記は抹消の時に遡つて効力を有することとなるのである。
して見れば借家法第一条に於いて借家権の対抗力の要件たる占有がその占有者の意思に基かずして失はれた場合に於いてはこれを回復することによつて初めから奪はれなかつたこととなり借家権の対抗力に何等欠ぐるところがなかつたと解すべきを至当とするのである。
右の見解は上告人独自の見解でなく学者の見解を探査して見ると薄根正男氏は「占有者の占有がその意思に反して侵奪された場合の如きは仮令現実に占有は一時なくとも対抗力を有するものというべきである」とされているのである。
(同氏実務講座借家論八八頁)
薄根氏の見解からすると上告人の占有が上告人の意思に反して奪はれたことの明かな本件については上告人借家権は第三者である被上告人飯野にも対抗できる筋合であるから当然に被上告人に対し本件建物の明渡を命じて然るべきであるそれなのに原判決は薄根氏を裁判長とする部でありながら上告人主張をむげに排斥しているのである。
その理由は奪われた上告人の占有は執行吏という国家機関によるものであるとするようであるがそれなら第一点に於いて論述したと同じ主張がここでも繰返へさなければならないが執行吏による占有の侵奪も亦占有回収の訴権ありとする上告人の見解よりすれば原審のような理由は採るを得ないものと云わねばならない。
また、原判決の如く借家権の対抗力の要件たる占有の侵奪は国家機関たる執行吏の強制執行によるからも早やその占有を回復し得ないとするは占有訴権の問題としてはあるいは考慮の余地があるとしても上告人の第二次の請求は占有訴権の主張ではなく本権たる借家権に基く請求である。従つて借家権の内の一部権能たる占有の点のみを切り離なして占有訴権がないからその借家権に対抗力がないと解釈することは一部分を把えて全体を判断しようとする誤つた考えである。
例えば登記のある賃借権の登記が不法に抹消された場合のことを考えてみよう。
抹消登記それ自体の回復登記の訴を提起するのは本筋かもしれぬが別に之を提起しなくとも抹消登記それ自体が無効だとの理由で賃借権を以て第三者に対して対抗力を主張し得ると解するを正当とする。
して見れば占有訴権がないからといつてその奪はれた占有はその奪つた手続即ち強制執行手続が無効だとの事由で第三者に対抗力を主張できなければならぬ筈である。
二、次に借家法第一条の「物権ヲ取得シタ者ニ対シ効力ヲ生ス」とは建物保護法第一条第一項に云う「対抗スルコトヲ得」と同義である。
このことは学者の定説である。(コンメンタール借地借家法一八一頁)
ただ、そこで問題なのは「爾後物権を取得した者」の内に借家権をも包合するかの点である。
借家権は物権であるとの見解もないではないが通説によると借家権を債権と解する、従つてそこに問題が伏在するのである。
しかし借家法第一条又は民法第六〇五条の「物権」とは民法物権篇に規定する物権であるとの厳格な意味に解すべきではなく第三者に対抗し得る権利と広く解すべきものと考える。
なお判例を調べてみると最高裁判所は借地借家臨時処理法の問題として「第三者」の範囲につき地上に登記ある建物を有する賃借権者は「第三者」に当たるとされている。
(最高裁民集一〇巻六号六二五頁)普通賃借権は借地権でも借家権でもその本質は債権であるから対抗力の対象たり得ないように思われるのであるが最高裁は「対抗力を有する賃借権」を第三者の内に加えたことは法解釈の一歩の前進であるし借家法第一条の「爾後物権ヲ取得シタル者」の意義を「対抗力を有する権利者」と解する見解の正当性を裏書したものとも云えるのである。
三、本件は建物の二重賃貸の場合に於ける問題であつて第一次の借家人たる上告人が家主に不法な強制執行によつてその占有を奪われ家主は本件建物を第三者たる被上告人飯野に賃貸した、そこで上告人は被上告人飯野に対し借家権に基いて本件建物の明渡を求めている事案である。
之に対し原判決は上告人の奪われた占有は執行手続が違法であつても執行吏の強制執行による占有の侵奪であるから占有訴権はないと冒頭掲記の如き法解釈をしたのである。
しかしその法解釈の誤りであることは前記の如くである。
原判決の右誤りは、もとより主文に影響すること明かであるからその破毀を求むるものである。
第三点原審判決には理由不備及び理由齟齬及び法解釈の誤解がある。
原判決によると「強制執行手続に瑕疵があつても執行吏の執行によつて占有者の占有を侵奪した場合に於いては占有訴権がない」と云い。
次に「被告会社が右執行によつて得た占有に基いて本件建物を善意の被上告人飯野一男に賃貸してその占有を引渡したので右飯野一男は占有権侵奪者の特定承継人と云うべきであるから上告人は右飯野に対しては占有の回復はできない」と云うのである。
しかし、原判決の援用する第一審の判決理由によると第一点で詳解したが要旨は執行吏による執行は「社会的に公認された強暴であるから占有の回復ができない」という。
右の趣旨は占有の侵奪にはなるが単に占有訴権がないとの趣旨かそれとも占有の侵奪になるとの趣旨が甚だ疑問である。
もし占有の侵奪になるとの趣旨なら第一点で論述したようにその解釈は誤つていることになる。
又もし占有の侵奪とは見られないというのなら被上告人飯野は占有侵奪者の特定承継人とはならないのである。
何故特定承継人にならないかというとそれは一つの判例を示すことによつて明かとなる。
大正八年五月二十日言渡の大審院判例によれば「甲カ乙ヨリ建物ヲ賃借シ其占有ヲ継続セル内、丙カ占有侵奪者ニ非サル乙ヨリ該建物ヲ賃借シ善意ニ之ヲ占有シタリトスルモ丙ハ民法第二〇〇条第二項ヲ適用スヘキ侵奪者ノ特定承継人ニ非ラサルヲ以テ、丙カ甲ヨリ適法ニ占有ノ移転ヲ受ケタルコトヲ立証セサル限リ丙カ該建物ヲ占有スル一事ヲ以テ甲ノ占有ヲ侵奪シタルモノト謂ハサルヘカラス」(抄録三〇巻一九七六七頁)と。
して見ると被上告人飯野一男は右判例の場合に於いては丙に相当するのであるから占有侵奪者の特定承継人と認定することは理由に齟齬があることになる。
凡そ判決の理由を記載するについては二様に解釈できるが如き曖昧な文章を以てすることは当事者をして納得し得させないと共に延いては司法の威信にも関係する重大事であると思う。
即ち執行吏による執行は社会的に公認された強暴だから占有訴権を有しないという文章だけでは果たして占有の侵奪とはなるが占有訴権だけがないというのか又は占有の侵奪にもならないと云うのかとの疑問を包蔵する。
判決理由の説示としては甚だ不備であると云わねばならない。
もし「占有の侵奪にもならない」との趣旨だとすれば被上告人飯野一男は「占有侵奪者の特定承継人」と認定していることは前記判例に照して理由齟齬となる。
なお原判決を考案すると執行吏の執行による占有の奪取も占有の侵奪には違いないがやつた行為は国家機関の行為だから占有訴権がないというなら、全く切捨御免の理論である。
それでは私権は浮ばれない。
取引の安全という上から見て国家機関のやつた行為は先ず間違いのないものと見て差支えないという考えから占有訴権を封殺しようとするのであればそれは大いに誤つている取引の安全は対第三者関係のことであつて少なくとも当事者間で通用しない。
問題点は執行吏の執行による占有の奪取は当事者間のことであるからである。
更に執行吏の執行々為によつて占有を奪うことは執行吏は国家機関であるから之に対し占有訴権がないとし成る私人が責任能力を有しない者をして相手方の占有を奪つた場合は占有訴権があるとすることは公私を差別待遇することとなる。
果たしてかような理論が受入られるか否かは第一点に於いて詳論したから本論点では之を贅しないが少なくとも憲法の精神とは相容れないこととなる。
以上孰れにするも原判決に違法があるからその破毀を求める。
第四点原判決は法令を誤解したが、審理不尽の不法がある。
原判決によると「上告人が望月安久夫に支払つた金三五、〇〇〇円は望月より支払を要求したものでなく、支払わざるを得なくて支払つたものではないから普通の損害とは認められない」と云い。
次に「望月に対する謝礼がどの程度を持つて相当とするかの判断を為す資料がない」と云つて上告人の請求を排斥しているのである。
右の判断につき二つの問題点がある。
その一は不法な強制執行によつて居室の明渡をうけ移転先のない場合知合いの望月安久夫方に寄寓の已むなきに至つた。
その寄寓の謝礼として支払つた金は特別事情による損害であるか否か、もし特別事情によるとしても本件は被上告会社に於いて当然予見し得るものであつたのではないか、の点であり、そのことは望月安久夫に対する謝礼はどの程度かを判断する資料がないというか果たして原審判決の云うように判断の資料がないと云えるか否かの点である。
右二つの問題点につき所信を陳べ原判決の誤つている点を指摘したい。
一、住宅難は現在に於いても必要量を下廻る情勢に在ることは公知の事実である。
況んや上告人が被上告会社から不法な強制執行によつて居室の明渡を断行された当時たる昭和二十八年六月三日当時は更に住宅難を告げていたことは多言を用いずして明かなところである。従つて居宅の移転先を物色することが困難であつたことも想像し得るかかる場合急余の策として知人の居室に同居を願うのは普通考えられることである。
況んや全く予想しない不法な執行によつて強制されて居室の明渡を断行された上告人としての採るべき手段は知人の宅に同居させて貰う以外他の方法はなかつたというべきである。
そうしてその同居をさせて貰つたことに対し額の多寡は別として謝礼の若干を提供することは我国の世態風習よりして普通あることである。
即ち上告人の望月安久夫に支払つた謝礼金は普通生ずべき損害というべきである。しからずとするも被上告人会社はそのことは当然予見さるべき事項でもあつたのである。
それは恰も電車事故につき損害賠償をする際身分財産その他社会的地位の如何なる者も電車を利用するであろうとする予見と同じである。
従つて上告人が望月に支払つた金三五、〇〇〇円は普通生ずべき損害でありもし特別事情に因る損害としても被上告会社に於いて予見すべかりしものであるから、上告人の請求を排斥すべきものではなかつたのである。
二、原審は望月に対する謝礼金の額を決定する資料がないというが、右の謝礼の額は慰藉料額の算定と軌を一つにするものと信ずる。
同居させてもらつた礼金であるから同居をさせた側の財産状況、家族関係社会的地位職業及び同居をした者の側の財産状況家族関係社会的地位職業等を斟酌して適当に裁判所が認定し得ることは恰も慰藉料の額を算定すると撰ぶところはない。
本件につき之を見れば上告人の右の事情望月の事情も決して表われていないのではなく本件記録には充分に表われている。
従つて裁判所はその額を適宜定め得べきものであつたのである。
しかるに之をしないで謝礼の額を算定する資料がないとして上告人の請求を排斥したのは法を誤解したか、審理不尽の違法があるというべく原判決は此の点に於いて破毀を免れない。 以上